2017年、ヒューストン・アストロズはロサンゼルス・ドジャースを破り、球団創設以来初となるワールドシリーズ制覇を成し遂げました。
大型ハリケーン「ハービー」によって大きな被害を受けたヒューストンにとって、その優勝は街を勇気づける特別な出来事でもありました。しかし、栄光から約2年後、その舞台裏に重大な不正があったことが明らかになります。
アストロズは電子機器を利用して相手捕手のサインを解析し、打者に次の球種を伝えていたのです。しかも、その伝達に使われたのは、最新鋭の通信機器ではなく、ダッグアウト近くに置かれていた「ゴミ箱」でした。
そもそも「サイン盗み」とは何か
野球では、捕手が指を使って投手に球種やコースを指示します。例えば、ストレート、カーブ、スライダーなど、次に何を投げるのかを相手打者に知られないよう、チームごとにサインを決めています。
このサインを相手選手が自分の目で観察し、規則性を見抜くこと自体は、伝統的に野球の駆け引きの一部と考えられてきました。例えば、二塁走者が捕手の指を見て、身ぶりなどで打者に伝える行為です。相手側もサインを複雑にしたり、途中で変更したりして対抗できるため、これは基本的にルール違反とはされていません。
ルール違反の境界線
カメラ、モニター、スマートウォッチなどの電子機器を使い、試合中に情報を入手して打者へ伝えることは禁止されています。人間の観察力による駆け引きと、映像機器を利用した組織的不正との間には、明確な一線が引かれていました。
アストロズは何をしていたのか
MLBの調査によると、アストロズは2017年シーズン序盤から、本拠地ミニッツメイド・パークの中堅方向にあるカメラの映像を利用していました。
まず、ビデオ判定用の部屋にいる選手やスタッフが、中堅カメラのライブ映像で相手捕手のサインを確認します。その映像と実際に投げられた球種を照合し、「この指の組み合わせならスライダー」といったサインの規則を解析しました。
当初は、解析した情報をダッグアウトへ送り、二塁走者を通して打者へ伝える方法が使われていました。しかしシーズン途中から、より直接的で、より大胆な仕組みに変化していきます。
ダッグアウト近くの通路にモニターを設置し、選手たちが中継映像をその場で確認しました。変化球が来ると分かれば、近くにあったゴミ箱をバットなどで叩き、その音を打席の選手に聞かせたのです。一般的には、「音がしなければストレート」「ゴミ箱を叩く音がすれば変化球」といった形で使い分けられていたとされています。
打者にとって、次の球が速球なのか変化球なのかを事前に知ることは、試験問題の答えを先に教えてもらうようなものです。どれほど優れた投手でも、球種が分かっていれば攻略される可能性は大きく高まります。
この仕組みは2017年のレギュラーシーズンだけでなく、アストロズが優勝したポストシーズンでも使用されたとMLBは認定しました。一方で、個々の打席や試合結果にどれほど影響したのかを正確に算出することは不可能とされました。
なぜ止められなかったのか
MLBの報告書では、当時ベンチコーチだったアレックス・コーラが、ゴミ箱を使った伝達方法に深く関わったと認定されました。また、ベテラン選手のカルロス・ベルトランを含む複数の選手が、従来の方法では十分な効果がないとして、より効率的な伝達手段を検討したとされています。
当時の監督A.J.ヒンチは、ゴミ箱を何度か壊して不満を示したものの、選手やコーチに明確な中止命令を出さず、球団上層部にも報告しませんでした。MLBは、監督には不正を止める責任があり、消極的な態度だけでは責任を果たしたことにならないと判断しました。
ゼネラルマネジャーのジェフ・ルーノウについても、本人が計画を直接指示したとは認定されませんでしたが、野球部門の責任者として、不正が続く組織風土を管理できなかった責任を問われました。つまり、この事件は一部の人間が秘密裏に行ったものというより、勝利を優先するあまり、誰も強くブレーキを踏まなかった組織全体の問題だったのです。
2018年と2019年はどうだったのか
MLBの調査では、ゴミ箱を叩く方法は2018年には使われなくなったものの、シーズン前半にはビデオ判定用の部屋からサイン情報を伝える方法が続いていたとされました。その後、選手たちが効果的ではないと判断し、この方法も中止されました。
MLBは、2018年のポストシーズンと2019年については、規則に違反するサイン盗みが行われた証拠は確認できなかったとしています。
2019年のアメリカンリーグ優勝決定シリーズでは、ホセ・アルトゥーベらが小型機器を身につけて球種を知らされていたという、いわゆる「ブザー疑惑」も広がりましたが、これはMLBの調査で立証されていません。したがって、ゴミ箱を使った2017年の不正と、証明されなかったブザー疑惑は分けて考える必要があります。
告発によって明るみに出た不正
事件が大きく動いたのは2019年11月でした。2017年にアストロズでプレーしていた投手マイク・ファイヤーズが、スポーツメディア『The Athletic』の取材に対し、球団がカメラ映像とゴミ箱を利用してサインを盗んでいたと証言しました。
この報道を受けてMLBは本格的な調査を開始しました。現役・元アストロズ選手23人を含む68人から事情を聴き、数万件に及ぶ電子メール、Slack、テキストメッセージ、映像、写真などを調べました。その結果、ファイヤーズの証言の中心部分が事実だったと認定されたのです。
MLBが下した処分
2020年1月13日、MLBはアストロズに対して次の処分を発表しました。
【MLBによる主な処分内容】
- 球団に上限額となる500万ドルの罰金
- 2020年と2021年のドラフト1巡目、2巡目指名権を剥奪
- GMジェフ・ルーノウを2020年シーズン終了まで停職
- 監督A.J.ヒンチを2020年シーズン終了まで停職
処分発表後、球団オーナーのジム・クレインはルーノウとヒンチを解任しました。また、事件への関与が認定されたコーラはボストン・レッドソックスの監督職を離れ、ベルトランも公式戦で指揮を執る前にニューヨーク・メッツの監督を退任しました。
しかし、2017年のワールドシリーズ優勝は取り消されず、選手個人への出場停止なども行われませんでした。選手たちは調査への協力と引き換えに免責を与えられていたためです。この判断には「実際に仕組みを考え、利用した選手が処分されないのはおかしい」という強い批判が集まりました。
後にコミッショナーのロブ・マンフレッド自身も、選手への免責について「最善の判断ではなかったかもしれない」と振り返っています。
なぜこれほど批判されたのか
最大の理由は、不正が行われた2017年にアストロズがワールドシリーズを制していたことです。
ただし、「不正がなければドジャースが必ず優勝していた」と断定することはできません。アストロズにはホセ・アルトゥーベ、カルロス・コレア、ジョージ・スプリンガー、アレックス・ブレグマンら実力のある選手がそろっており、チーム自体が強豪だったことも事実です。
「試合の公正さに対する疑問を生じさせたこと自体が、野球に重大な損害を与えた」
― MLB公式調査結論より
それでも、公正な条件で戦ったかどうかが疑われた時点で、優勝の価値には消えない影が落ちることとなりました。
現代野球に残した教訓
アストロズの事件は、データ分析や映像技術そのものが悪いのではなく、「どこまで使用してよいのか」という境界線を組織が守ることの重要性を示しました。
本来、映像設備は判定の確認や選手の技術向上に使われます。しかし、勝つために便利な道具が、公正な競争を壊す道具へ変わることもあります。MLBはその後、試合中に閲覧できる映像を制限するなど、電子機器の管理を強化しました。さらに近年は、投手と捕手がボタン操作で球種を伝える「PitchCom(ピッチコム)」も導入され、指のサインを盗まれる危険そのものを減らしています。
アストロズはその後も好成績を残し、2022年には再びワールドシリーズを制覇しました。それは、チームの強さがサイン盗みだけで作られたものではなかったことを示す結果でもあります。
2017年の優勝を語るとき、ゴミ箱の音とサイン盗み問題を完全に切り離すことはできません。公式記録から優勝が消されなくても、人々の記憶には注釈が残り続けます。
アストロズの事件は、ひとつの勝利よりも、競技への信頼を守ることのほうがはるかに難しく、そして重要であることをMLB全体に突きつけたのです。
